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...........................................................................................................................................................+++.プロローグ

 ホルマリンの匂いが、感覚を鈍らせる。気をしっかり持たなくては。そう思ったときにはもう遅い。既に私は、幻想とディジタルの入り混じったような羊水の海に囚われて、その波のうねりに身を委せるしかないのだ。
 ここに来ると、いつもそう。絶えずフル回転している思考が、完全にストップしてしまう。だから私はblueな時、ここへ来ることにしている。ここはきっと、喧騒と猥雑の入り混じった外の世界にも、底知れない不気味な闇の世界にも属していない。まるで、全てが、夢現と妄想の創り出す無声映画。
 金属の光は波間からこぼれる陽射しになり、澱んだ空気は身体にまとわりつく液体と化す。胎内に、果たして光があるのだろうか。答えはNOだ。と言うことはつまり、ここは非現実の、第二の母体内。その羊水に身体を委ね、私は永久の胎児になる。もう、棄てられることなど有り得ない――。

「おまえの恋人はホルマリン漬けの動物共か」

 不意に後ろで声がして、現実に引き戻される。周りは懐かしい海中ではなく、色々な器具の放つ無機質で冷たい光と沢山のホルマリンに囲まれた、薄暗い見慣れた空間だった。煙草の匂いが充満していく。

「ジン……何か用?」
「何か用、じゃねぇ。またここに居たのか……よっぽどこの部屋が好きみたいだな。ベリーニが捜してたぜ」

 呆れたように私を一瞥すると、ジンは研究チームのメンバーのCNを口にした。あからさまに顔をしかめてしまう私に素早く気付いた彼は、唇の端をあげて見せる。嫌らしい笑い方。だけど知っている。私の笑みも、こんな風だって。

「最近、実験に参加してないらしいな」
「それが?」
「フン、ガキがサボリか」

 いちいち憎まれ口を叩く。そんな彼にも、その度ムッとする自分にも苛立って、彼から煙草を奪い取ると一気に吸い込んだ。鼻の奥に、突き上げるような痛み。乾いた眼に、涙が一瞬広がって消える。

「やるべき事はやってるわ……データもちゃんと出してる。あたしはあたしのやり方でやるのよ」

 改めて辺りを見回してみると、やはりなかなかグロテスクかもしれない。茶や桃色をした動物のパーツ、或いは全身が、沢山の瓶の中で静止している。
 初めてこの部屋に入った時、ここは永遠の過去だと想った。二度と戻れないはずの世界。決して止むことの無い胎動。今度こそ、もうひとりにはならない。
 私が死んだら、焼かれるだけだ。骨の欠片と焦げた灰。後は何も残らない。けれど、ここに居るかつての動物達は違う。彼らはホルマリンの中で、永遠の胎児になる。痛みも悲しみも、全てから解き放たれて、静かな魂のこどもとなるのだ。

「ラボに戻る気は無ぇみたいだな」
「戻るわよ、みんなが帰った後にね」

 背後でカチャリという小さな音がした。振り返ると、彼と眼が合う。

「……いつまで居るつもり?鍵を開けて、早く出て行って」

 彼は何も答えず、その代わりに私を引き寄せると唇と首筋に軽くキスをした。

「ちょっと…ふざけないでよ。こんな所で……」

 ホルマリンの刺激臭が、脳髄を痺れさせる。拒む理由は充分だったのに、私は抵抗しなかった。それどころか、躰の熱さに気も狂いそうになる。いつもはこんな風じゃないのに。私は、ホルマリンという麻薬に取り憑かれた哀れなジャンキーなのかもしれない。