.

.


 ラボに行かなくなって、今日でどのくらい経っただろう。
 あれから私は、部屋を一歩も出ていない。部屋はあの夜のまま。カーテン越しに漏れてくる陽射しが、部屋を薄く照らしている。空腹感はあるのに何も食べる気がしなかった。
 色々なことが、頭の中をよぎっては消えていく。
 幼い頃おとずれた、いつかの海。お姉ちゃんと、ふたり。きっと誰か引率者が居たのだろうが、それは私の記憶の破片に残されていなかった。

『海はすべての母親なの』

 彼女の言った言葉。あの頃、お姉ちゃんは中学にあがったばかりで、私はまだ小学生だった。良く判らなかったけれど、子供心にも深く染みわたるその言葉を、私は素晴らしいと想った。

『海を見てたら思い出したわ、昔の事……』

 志保は覚えてないと思うけど、と彼女は話し始めた。

『お母さんとお父さんが死んで2年目、私はずっとひとりぼっちになったと思ってた。その頃住んでた家は、少し行った所に海があったの。私、夜中に隣で眠る志保を置いて、ひとり家を抜け出した。その夜はおばさんが子守りに来てくれてたし。それで、海へ行ったの。真っ暗で、怖かった。今でもはっきり思い出せる。いつもは空の色が映って青い海なのに、夜の海って黒いの、すごく。当たり前なんだけど……海は青ってイメージがあったから、怖かった。でも静かで、何者も拒まないような波だったわ。だから私、海に入ろうって思ったのよ。ジサツとか、そんな観念は無くて、ただ、海のなかに行こうってね。まず、波打ち際に立ってみた。水が押し寄せて、そして引く時に少し向こうの海面が急に落ちるの。沈んでるって言うか……とにかくそこだけ、へこんでて。あそこに吸い込まれたら、どうなるのかな、海のなかに入れるのかなって思った時、後ろで声がしたのよ……志保の声が。……そう、あなたの声。振り向くと、まだちっちゃい……そうね、多分2歳くらいだったんじゃないかな、志保が居てね。私、びっくりしちゃって。どうしてここが判ったのかとか、色々訊こうと思ったけど、何も言えなかった。だって、志保ったら、今にも泣き出しそうな顔してるんだもの。それを見て私、ああ、ひとりぼっちなんかじゃなかったんだなって思ったの………………』

 突然、ドアチャイムが鳴り響いて、思考回路が切り替わる。いつのまにか部屋が暗い。

「………………」

 言葉にならない恐怖が躰の中をせり上がって来る。
 もしかしたら、あの男達かもしれない。
 私は、叫び出しそうになるのを堪えながら、息を殺していた。ドアチャイムは3、4度鳴り続けて止まった。シン、と辺りが波打ったように静まり返ったのも束の間、今度はドンドンとドアを叩く音にとって変わる。

「やぁっ……!」

 思わず悲鳴が口からこぼれる。しまった、と思った時には、ドアを叩く音は止んでいた。
 数秒の、静寂。

「……シェリー」

 ジンだ。私はハッと身体を起こした。

「居るのか……」
「……ジン……」

 躊躇い無く鍵を外す。
 外はもう夜に包まれ、その闇を背に、彼は立っていた。

「何故ラボに来ない?」
「………………」

 鋭い眼に貫かれると、いつも声が出なくなる。
 私は、ただの陶器の人形みたいに、じっと彼の眼を見つめ返すだけ。

「話は聞いた。問題を起こしてくれたみたいだな……」
「……ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」

 怒っているのだろうか……。やっとそれだけ言うと、意外にも彼はほんの少し表情を緩めた。

「もういい。オレが適当に片しておいた」
「……ごめんなさい」
「謝るな。もういいと言ってるんだ。中に入るぞ」

 久しぶりに窓を開けると、澱んでいた空気が浄化されるように澄んでいくのが判る。

「あのクズに、傷を付けて悪かったとでも思ってるのか?」
「……全然。ああされて当然だもの」

 おまえらしい答えだ、と呟いて、彼は続けた。

「しかし、嘘だな」

 一瞬だけ、身体が引き攣る。
 どうしていつもそんな見透かすような口調なの?
 止めてよ。

「違うか?」
「何が……」
「おまえが人を傷付けて平気なワケねぇ」
「そんな事……」
「違うか?」                             
つ く
「……違うわ。私はそんなに弱い人間じゃない。組織にそう育てられたんだから良く判ってると思うけど」
「ああ、良く判ってるぜ」

 本当は、私の何も知りはしないくせに。私が、あなたの何も知らないように。

「おまえの事はオレが一番良く知ってる」

 あなたこそホントの嘘吐き。だけど、この世界はひとりで生きていくには広すぎたの。

「……自惚れよ」