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 がしゃん、と派手な音を立ててガラス瓶が砕けた。同時に、褐色の液体がぱっと床に広がり、その上にどろどろした塊が飛び散る。ホルマリンの匂いが鼻の奥に突き上げ、私は軽い眩暈を覚えた。

「悲鳴ぐらい上げてみろよ、クソアマ!」

 男は言い、激しい怒りを浮かべた眼で私を睨みつけた。頬の辺りが痛々しくただれている。それ相応の報復をしない理由はどうせ、ジンに言われているからだろう。私は、ラボへ来た事を後悔し始めていた。
 初めは何も言ってこなかった研究員達も、1ヶ月、2ヶ月と経つとさすがに騒ぎ始め、今日、私は強制的に施設に連れ戻されたのだ。抵抗できなくも無かったのだが、そうすると組織にはむかったとされ、どういう事態になるか判らない。ラボに入った途端、好奇と侮蔑の入り混じった視線が飛んできた。それでも席に着き、研究を始めようとパソコンの電源を入れると、今度は名前を呼ばれる。私に声をかけたのは、あの時の男だった。第六研究室に来いと言う。何がしたいのかは判りきっていたので、言われるままに着いて来てやったのだ。

「こんなもんじゃまだ足りねぇくらいなんだからよォ……この程度にしといてやることを感謝するんだな……」

 そう吐き捨てて、男は部屋を後にした。ドアが音を立てて閉まる。髪からボタボタとホルマリンを滴らせ、身体中臓物にまみれて、私は暫くその場に座り込んだまま動けなかった。額が痛む。きっとガラスの破片で切ったのだろう。手をやると、指先が鮮血に染まった。

「痛っ……」

 自分が生きている事を確認する為にリストカットを繰り返す人もいるという。でも私は、生きている実感など要らなかった。赤い血も、気の遠くなるような痛みも、全ては自分が死に向かっている証なのだ。細胞は壊れてゆく。やがてゲームオーバーの時が来る。どちらが勝者でどちらが敗者か、そんな事は何億年も前からプログラムされているのだ。意識が朦朧としてきた。いけない、しっかりしなくちゃ。私の髪を、頬を、白衣を濡らしているのは、ホルマリンだ。羊水なんかじゃない。私は安らかな胎児になどなれない。そんな事は赦されないのだ。床に散らばっているのは、これは臓物。かつて動物だったものの残骸。永遠のはずのガラス瓶は、いともたやすく壊れたのだから。
 私は汚れた白衣を鞄に突っ込むと、逃げる様にラボを後にした。









 擦れ違った通行人が驚いた様に私を振り返るけれど、そんな事はどうでもいい。
 部屋に帰るとすぐ、テレビを付ける。何でもいいから音が欲しかった。
 鞄を放り投げ、ベッドに倒れ込む。部屋の中にホルマリンの匂いが充満していった。
 血も乾き、頬に髪がはりついている。気分が悪い。

「えー、今入ったニュースです。今日×月×日、○○銀行から10億円を強奪した犯人のひとりが、ピストルで自殺しました」

 吐き気がする。脳内にホルマリンが流れ込んでくるみたいだ。

『海はすべての母親なの』

 でも。でもね。私を受け入れてはくれなかった。

「えー……はい、今映っているのが、容疑者の映像です」

 画面にはよく知っている顔が映った。
 上品で清楚な感じのする顔。姉妹なのにあまり似ていないなぁと、時々ふと思ったりもした、顔。
 判ってた。きっとこうなるような気がしてた。私達は海へは還れない。

『あそこに吸い込まれたら、どうなるのかな』
『海の中には入れるのかなって』

「容疑者は20代と見られる女性で、ホテルのフロントに10億円の入ったケースを預ける際、広田雅美と名乗っており、警察は身元の確認を急いで……」

『心配しないで』

「女子高校生が警察に通報……」

『志保ったら今にも泣き出しそうな顔してるんだもの』
『ひとりぼっちなんかじゃなかったんだなって』

「あとの容疑者二人は彼女が殺した可能性が……」

『お姉ちゃんは大丈夫だから…』

       お ね え ち ゃ ん ・ ・ ・ ・ ・ ・

 心臓の鼓動が、胎動と重なり、共鳴して、私を引き裂こうとする。

「容疑者は罪に耐えかね自殺したのではないかという事です」